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潮流に乗れ

Victor Stone
Microsoft Corporation

2000 年 7 月 10 日

トリッパー は馬鹿なことに関わる気はまったくなかった。だが、この日の午後、彼の忍耐力は風邪をひいたバリトンの声よりも低かった。上司の部屋の前をこっそり通り過ぎたかったのだが、ジェイコブの部屋のドアは大きく開かれ、客用の椅子で押さえられていた。しかも、ジェイコブは誰かが部屋の前を通れば目に入る角度で電子メールを読んでいた。トリッパーがこっそり部屋の前を通り過ぎようとすると、やはりジェイコブの呼ぶ声が追いかけてきた。しかも 1 語ごとに声が大きくなる。

「トリッパー!おい、トリッパー!トリッパー、時間はあるか?」

ちょっとの間をおいて、疲れた顔のトリッパーが大儀そうに部屋の入り口に姿を現した。トレードマークのクリケットバットにバッジを付け肩から吊るしている。顎を突き出して小さな声で「何ですか?」とだけ口にした。

「やあ、トリッパー。ようこそ」。ジェイコブは深夜のトーク番組の司会者のように迎えたが、少しばかり誠実さに欠ける口調だ。

「カフェインの摂取が必要です」。もぐもぐと言いながらトリッパーは部屋の中に入ってきた。

「わかった。まあ座れ」。ジェイコブは来客用のソファをすすめた。「話がある」。

ジェイコブの来客用の座席は(ドアを押さえている椅子は別として)、ガレージセールで買った背の低い黄色いソファで、おそらく 1970 年代には、今や煤けた鏡やよれよれになったオレンジ色のけばだったカーペットとよい組み合わせだったのだろう。そしてそれ以来、洗練の度合いを増す社屋に居座っている。トリッパーはいつも、これがジェイコブの「ぴりぴりしていようとする」うまく行かない試みなのだと思っている。

下流工程の依存

トリッパーがため息をつきながらソファに腰を落とすと、ジェイコブは詰問した。

「先週話したユーザビリティ機能のコードのチェック インはいつだ?」

「スケジュールを見てみます」。トリッパーは筋肉を動かさずに言ってから「予定はありません」と答えた。

「何だって?」ジェイコブの反応は心配心配を通り越していた。

「予定はありません。考えてみましたが、あれはどうしようもない機能です。ユーザーの知性に対するひどい侮辱ですよ」。

「トリッパー、この機能は下流工程が当てにしているんだ。ドキュメントはもう書き上がっているし、宣伝もしている。これは役に立つ機能だと君も言ったじゃないか」。ジェイコブは言い募る。「ユーザビリティ テストだって…」

「何にしたところで」とトリッパーはさえぎった。「今言ったように、もっと考えてみたんです。馬鹿相手にしか役に立ちませんね。それがわからないとしたら、そんな馬鹿にはこの製品を使って欲しくありません。あとは全部雑音です。ドキュメントは捨てて、宣伝はやり直すんですね」。トリッパーはジェイコブに向かってバットを突き出しながら講義口調で続けた。「ユーザーを教育してやるべきなんです。いちばん低級なところから搾取するのではなく。いや、誤解しないでくださいよ。おそらく理解したくないでしょうけれど、私は世界を良くしたいんです」。

ジェイコブは目を固く閉じ、がりがりと頭を掻きむしった。

「だが、君の仕事はこの製品を良くすることなんだぞ。君はいつから、判事か陪審員、そうでなければユーザビリティ機能の死刑執行人になったんだね?」ジェイコブは頭を掻きむしるのを突然止め、疑わしげな声音で尋ねた。「おい、先週はいったい何をしていたんだ?」

トリッパーはバットでドアの方に指して答えた。「第 7 棟からもらって我々が使っている出来の悪いネットワーク機能のコードを誰かに見せられたんです」。

ジェイコブは促した。「それで?」

「書き直しました」。

ジェイコブは両手を上げ、それから両脇に垂らした。「冗談だろう。誰がそんなことをしろといったんだ?あのコードを第 7 棟から手に入れるのには苦労したんだぞ。彼らは依存関係ができることを嫌がったんだが、コードを再利用すれば、それが会社のために一番良いはずじゃないか」。

トリッパーは手袋人形にしゃべらせるかのように手の平を開いたり閉じたりして「だめ、だめ、だめ、あんなコードは屑だ!」

「じゃあ、彼らに改良しろと言えばいいだろう」。

「そうしたくたって連中にはできませんよ。あのコードはスパゲティに対する侮辱です」。

「いいだろう、トリッパー。だが、君のコードはミートボールのようにそのスパゲティと合うんだろうな?」

「なかなか良く合いますよ。それに私のバージョンのほうが 14 倍速いんです」。

ジェイコブは感心しなかった。「『なかなか良く合う?』その『なかなか良く合う』というのはどういう意味なんだ、トリッパー。ウィーナー のところに行って、半年も前から売り込んでいるユーザビリティ機能がなくなったと言えということかね。そして、機能は重なっているのに別のチームとは互換性のないコードがあると言えというのかね。しかも、我々は彼らのコードを使うと約束しているんだぞ。ただでさえスケジュールに遅れそうなのに」。

トリッパーは頑固だった。

「いんちきな機能を経営陣に売り込んで、お粗末なコードのお粗末な取引をして、チームに無茶な出荷日を押し付けるんだったら、私を責めないで欲しいものですね」。

ジェイコブはこの反撃を無視した。爆発を抑えようとしていたのだ。「新しいコードはまだチェック インしていないと言ってくれ」。

「わかりました。私はまだ新しいコードをチェック インしていません」。トリッパーは機械的に答えた。彼は下を向き、答えながらバットで床をトントンと叩いていた。

「じゃあ、本当はどうなんだ?」

「聞きたいですか?本当は今朝、午前 4 時にチェック インしました」。

ジェイコブは大きく目を開き、顔は真っ赤になった。そしてあきらめの大きなため息をついた。「ウィーナーに電話をかけて、14 倍の高速化についてどう言うか確かめてみよう。たぶん、どうしてそうなったかについて根掘り葉掘り聞かれたりはしないだろう」。

なんとか電話をかけられるようになると、彼は副社長が 1 つしか質問しなかったのに驚いた。「それはすごい。そんなに性能を上げてくれた開発者は誰だい?」

混乱

その後の数週間に発生した空騒ぎを伴う数々の出来事は、組織改変の騒ぎになれた人々さえも驚かせた。

スパゲティ議論の数日後、サイモン という名前の新しいアーキテクトに率いられた第 12 棟のチームは、CEO に対してコードネーム『ボンド』という技術のプレゼンテーションをした。このプレゼンテーションに特別に招かれたハンク ウィーナー副社長は、ボンドにはトリッパーの性能強化は含まれていない代りに、ジェイコブから提供されるはずだった教育的なユーザビリティ機能が含まれている、いわばジェイコブのプロジェクトの改良版であることを知った。

このユーザビリティ機能はものごとを確実にわかりやすくする、サイモンによるボンドのデモを見ながら、ウィーナーはそう考えていた。自分の前に置いてあった黄色いリーガルパッドに「ジェイコブ、ユーザビリティ機能はどこだ?」と書いて回りを枠で囲んだ。

プレゼンテーションの直後、トリッパーはハンク ウィーナーから直接かかってきた電話で、彼の性能強化のコードをサイモンに渡すように言われた。

「何のために?」トリッパーは副社長に尋ねた。

「君のコードはボンドで使うべきなんだ」。ハンク ウィーナーはぴしゃりと言った。

ジェイコブはこのことを知り激怒した。「ボンドの豚ども」が彼のアイデアを盗んでそれを真っ先に CEO にプレゼンテーションしただけでも十分に腹立たしいのに、さらに腹立たしいのは彼自身の上司であるハンク ウィーナーが、ひどいことに、トリッパーの性能向上コードを密かに分け与えていたことだ。

技術の交換をしているうちにサイモンとトリッパーは意気投合し、サイモンはトリッパーがどうやってハンク ウィーナーやジェイコブといった「ろくでなし」の下でやっていけるのか、なぜ「影響を受けてだめになってしまう」ことを心配していないのかと驚いた。

「波をしっかりつかんで、浮いているからだ」とトリッパーは笑い、バットをサーフボードのように揺らして見せた。「次の組織改変の波が岸で砕けるまで、潮流に乗るんだ」。

サイモンは懐疑的だった。

「最後にハンクの奴と会ってからというもの、まだあのイヤな感じを洗い落とそうとしているんだ。コードをありがとう。でも、第 12 棟に急いで戻って、扉に鍵をかけたい気分だからもう失礼するよ」。

しかし、2 日後、ハンク ウィーナーは全社向けの電子メールで、ボンドが自分のプロジェクトになり、ボンド チーム全体、特に「輝ける星、サイモン」が自分の下に配属替えになったことを発表した。サイモンはウィーナーのために働くという考えに愕然として、トリッパーの肩で泣いた。「最悪の悪夢だ。体育館のシャワーが『消火ホース』仕様になったらどうなるか知っているかい?」

「大本に行け」というのがトリッパーのアドバイスだった。「これはワーナーだけじゃできない。CEO の承認が必要だったはずだ。CEO にかけあうといい」。

サイモンは、トリッパーのアドバイスに従ったが遅過ぎた。サイモンがその話をしたときには、CEO は「彼にチャンスをやってくれ、サイモン。それに、もう取り消せない。解放した精霊を再び閉じ込めることはできない」。

「こんなでたらめな比喩を聞いたのは初めてだ」というのがサイモンの話を聞いたトリッパーの感想だった。

ジェイコブはサイモンが悩んでいるのに気付くと当然の報いだと思い、サイモンが騙されたと感じているのを知るとひねくれた満足を感じた。彼は嘲りをほとんど隠そうともしない電子メールをサイモンに送りつける誘惑に勝てなかった。サイモンはその電子メールをトリッパーに転送するときに「ジェイコブの性格は駆け引きに向いていない」というコメントを加えた。

「駆け引きに向いているのは誰だい?」というのがトリッパーの返事だった。

取引、そして大団円

ボンドの組織改変が発表された翌日、ハンク ウィーナーは部門全体に宛てた電子メールを出した。その始まりは「当社の今後の戦略において、我々の部門が担う役割の重要性は増すばかりであり ...」というもので、ボンドは「ユーザビリティは優秀」で、「性能は並」だったため、ジェイコブのプロジェクトは「整理統合」され、ジェイコブとトリッパーはサイモンに報告をする立場となり、「次の一歩への新たな役割」を見つけるという説明で楽しげに締めくくられている。

結局、ジェイコブはサイモンに報告はしていない。ここ数週間、社内に渦巻いていた噂によれば、ジェイコブは「あらかじめ計画されていたが発表されていなかった」休暇のためにオフィスを離れるときに、文字通り砂埃を蹴立てて駐車場の車に向かうのを目撃されている。

一方サイモンは、こうした組織改変の騒ぎを「私は悪魔と取り引きしてしまった」と総括した。これは、ハンク ウィーナーからトリッパーのコードを後先考えずに受け取ることによって受けるはめになったしっぺ返しを指している。この副社長の下で働かなければならないのと引き換えだったのだ。

組織改変の混乱もほぼ収まった 1 週間後、サイモンがトリッパーのオフィスにかけ込んで来て、ドアを閉めた。

「どうしたんだい?」トリッパーは半分頷きながら言った。

「信じてもらえないかもしれないな」。サイモンは息を切らしていた。「今 CEO と話したばかりなんだが、第 7 棟の馬鹿者をひどくけなしている」。

「当然だね」とトリッパー。「で、そいつらをどうするって?少しは役に立つことをさせるのか?たとえば、私の車を洗わせるとか」。

「いや、もっとすごいんだ。まあ聞いてくれよ。最初は彼らの面倒を見てくれと言われるのかと思っていたから、そうした考えは捨てて欲しいと言おうと思っていたんだ。ところが、求められたのはアドバイスだった。あのチームが『しっかりした基礎を作ることができなかった』から、この仕事の適任者を、なんと副社長レベルで、推薦できないかというんだ」。

「答を考える振りくらいはしたんだろう?」トリッパーは尋ねた。

サイモンは微笑んだ。

「人生で一番長い 8 秒間だったよ」。

Victor Stone は、Microsoft の Web プラットフォームとツール グループで働くソフトウェア デザイン エンジニアです。彼のモットーは「属するな。群がるな。自分で考えろ。ピース」。